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満月

 方々を回ってやっと手に入れた木の御札を、白い深皿に載せる。御札の方が皿の直径よりも長いから、橋を渡したようになる。
 皿には水を張った。満月が水面に映る。まだ皿のふちに近い位置だ。
「もう少しかな」
 水面の月が、皿の真ん中、ちょうど御札の上に来たときが合図だった。
 皿を庭に残したまま、縁側に座る。縁の下から虫の声が聞こえていた。湿った風に土の匂いが混ざっている。低い板塀の向こうに瓦屋根が見える。高い建物がない視界は、空の割合が大きい。満月がなければもっと星がたくさん見えるだろう。
 昭和に飛ばされてからそろそろひと月。あの晩も満月だった。やっと帰ることができる。
「最後に一杯」
 後ろから声をかけられた。
「ほんとはお酒にしようかと思ったんだけどね」
 湯呑みを載せたお盆を置いてからあたしの隣に腰を下ろして、おばちゃんはそう言う。その笑顔にあたしは首を振る。
「だめだめ、酔っぱらって帰れなくなっちゃうよ」
 手に取った湯呑みの中はお茶だった。
 この時代にタイムスリップして、最初に会ったのがおばちゃんだった。名前も聞いたことがないし、知っている誰かに似ているわけでも写真で見たことがあるわけでもなく、たぶん彼女は現代のあたしとは何の関わりもない人だろう。彼女は私の事情も聞かずに助けてくれ、家に泊めてくれた。事情を聞いてからはいろいろと手助けしてくれた。おばちゃんがいなかったら御札を手に入れることができなかったと思う。それどころかどこかで行き倒れていたかもしれない。
 おばちゃんは一人暮らしだった。一人で暮らすには広い家だ。その理由はついに聞けなかった。
 今が最後の機会なんだろうけど、あたしたちは縁側に並んで黙ったまま、ただ月を見ていた。
 お茶はいつもの通り渋かった。
「ありがとう、おばちゃん」
 あたしは立ち上がる。
「元気でね」
「あんたこそ、今度はしっかりやんなさいよ」
 おばちゃんはあたしの両手をぎゅっと握ってくれた。
「うん。じゃあ行くね」
 軽く手を振って、庭に置かれた皿に近づく。月はもうほとんど御札の上だ。水面と違って月が映って見えているわけではないけれど。
 心の中で、ゆっくり十数える。月が動く。御札でできた橋の真ん中に乗るのを確認して、あたしは呪文を唱える。
 唱えるうちに、御札が光り始めた。鏡になって月光を反射したかのようだった。光は徐々に強くなり、唱え終わったときにはまぶしくて目を開けるのがやっとというくらいの明るさになっていた。
 これでこちらの時代から向こうの時代へ橋がかかった。後はこの橋を渡るだけ。
 あたしは一歩光の中に踏み出した。

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