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夕方

 あっと思ったときにはもう夕方に巻き込まれていた。
 紅茶に一滴だけ牛乳を垂らしたような、ごくわずかに濁ったセピア色の視界。足元に地面はなく、上下左右同じ景色だった。
 元々歩いていたため、勢いで一歩踏み出してしまう。しかし、きちんと地面の感触があった。浮いているわけではなく、透明な床の上にいるようだった。少し冷たい。
 大きな雲が右から左へ横切っていく。雲の左側は眩しいほどに輝いていて、そちらが西だとわかる。影になる部分は木炭で描かれていた。
 なんとなく見送って、私は目を見張る。懐かしい顔が雲に埋もれていた。
「…………っ」
 声に出して呼びかけてしまいそうになり、私は慌てて口を両手で押さえた。ここは夕方だ。声をかけてはいけない。幸いあの人は私には気づかなかった。
 目を閉じる。心の中で名前を呼ぶ。首に左手を添える。このままでいいのだろうか。私はどうしたら。なぜあのとき。私は。何を。
 突然、腕をつかまれる。驚いて目を開けると、辺りの景色は夕方ではなくなっていた。見覚えのある、直前まで歩いていた駅の構内だ。私は階段の頂上から落ちる寸前だった。
「大丈夫?」
 頭の上から低い声。
「ごめんなさい」
 無意識にそう答えると、悲しくなった。私はあの人に謝りたかったのだ。せっかく会えたのに戻ってきてしまった。
「助けてくれなくてもよかったのに」
 思わず口に出してしまう。
「あっそ。だったら落ちる?」
 言うが早いか、背中を押される。落ちると思ったのに、腕はつかまれたままだったからそうはならなかった。身体が反転して背を下にして、右腕一本で支えられている。相手は細長いシルエット。蛍光灯がちょうど眩しくてよく見えない。
 足が床を離れると同時に引っ張り上げられて、抱きとめられた。二人で後ろに倒れこむ。
「ははっ」
 すぐ近くで笑い声がした。骨ばった身体が揺れるのが直に伝わる。がっちり両腕で抱え込まれていて私は起き上がれなかった。
「おもしろかったの?」
 そう聞くと、舌打ちされた。
「全然」
 微かに夜の匂いがした。

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